コラム

医療訴訟実務共同協議会で発表しましたー高度の蓋然性の意味するもの、そして相当程度の可能性の損害の射程

 2026年7月16日、札幌地方裁判所の裁判官、患者側弁護士、医療側弁護士が医療訴訟の実務について協議する「医療訴訟実務共同協議会」において、報告をする機会をいただきました。テーマは「因果関係判断における高度の蓋然性と『相当程度の可能性』の損害における射程」です。

 やや理論的な内容になりましたが、日々の実務に直結する問題意識から出発したものです。ここでは、その概要をご紹介します。

【「高度の蓋然性」という証明度への疑問】

 医療訴訟における因果関係の証明度について、最高裁昭和50年10月24日判決(ルンバール事件)は、訴訟上の因果関係の立証は自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる、と判示しました。

 この判決は、自然科学的証明を不要としたという意味で、因果関係の証明を容易にする方向に働くものと評価されてきました。しかし今日の実務においては、「高度の蓋然性」という基準そのものが、患者側にとって高い壁となっている面があります。

 学説上も、証明度をめぐる議論は続いています。英米法系では「証拠の優越」(アメリカのpreponderance of the evidence、イギリスのbalance of probabilities)が採用されており、要証事実の存在が不存在よりも蓋然的であれば足りるとされます。日本でも、「証拠の優越よりは高いが、通常人が疑いを差し挟まない程度の高度の蓋然性よりは低い」という優越的蓋然性説が有力になりつつあるとの指摘があります。伊藤眞教授も近時この立場に転換されていますし、三木浩一教授は証明度を60%程度と説かれます。須藤典明元判事は6対4の蓋然性説を提唱されています。

【誤判リスクの非対称性】

 なぜ高度の蓋然性でなければならないのか。この点について、須藤論文の指摘は示唆に富みます。

 そもそも「高度の蓋然性」は、絶対的真実に基づく誤りのない処罰を目指す刑事訴訟における証明度に由来するものです。しかし民事訴訟は、刑事訴訟と異なり基本的に対等な当事者間の争いです。積極的誤判を恐れるあまり証明度を高く設定すれば、その分だけ消極的誤判が増えることになります。一方当事者にだけ極めて高い証明責任を課すことになっていないか、という問題提起です。

 この問題は、医療訴訟において特に顕在化します。医学統計によって生存率などが数値化されるため、証明度が具体的な数字と直接向き合うことになるからです。

 たとえば、生体肝移植を受けた場合の累積生存率が1年後78%、5年後69.8%という事案について、「1年後生存率でも80%を超えていない」ことを理由に高度の蓋然性を否定した裁判例があります(大阪地判平成22年9月29日判時2116号97頁)。また、スタンフォードB型大動脈解離について、重篤な破裂には至っていなかったことから院内生存率71%と認定しながら、高度の蓋然性を否定した裁判例もあります(札幌地判平成24年9月5日判時2169号51頁)。

 証拠の優越(50%超)よりは高いとしても、80%以上を要するという理論的根拠は乏しいのではないか。71%や78%という数字を前に、機械的に「80%に届かない」として因果関係を否定する判断は、果たして合理的といえるのか。ここが私の問題意識の出発点です。

【立証責任軽減の二つの手法】

 証明の困難をどう克服するか。比較法的に見ると、大きく二つのアプローチがあります。

 第一は立証責任アプローチです。ドイツでは、重大な治療過誤が存在し、その過誤が実際に生じた種類の生命・身体・健康侵害を一般的に引き起こし得るものである場合には、その治療過誤が当該侵害の原因であったと推定するという判例法理が成文化されています。フランスでは、フォート(過失)によってリスクを創出し、そのリスクの現実化により損害が生じた場合には因果関係を推定するという考え方が広く採用されています。なお、ドイツ・フランスは証明度自体は刑事訴訟と同程度の高い水準を採っており、その分を立証責任の操作で調整している点が興味深いところです。

 日本では、一応の推定や表見証明といった手法は論じられるものの、立証責任の転換が実務的に認められているという理解には至っていません。一定程度の軽減にとどまります。

 第二は対象変更アプローチです。因果関係そのものを立証の対象とせず、問題を回避する発想であり、機会喪失論(Loss of Chance)がこれにあたります。悪しき結果それ自体ではなく、より良い結果を得られた可能性・機会の喪失または減少を損害と捉えるものです。フランスでは全面的に採用され、アメリカでも多くの州が採用しています。イギリスは医療過誤における機会喪失論を否定していますが、「著しく増加した危険性テスト」という別の救済手段を用意しています。

 なお、最判平成11年2月25日が「現実の死亡時点で生存していたか」を問題とするアプローチも、対象変更の一種として位置づけられる可能性があります。本来「生存」はより幅のある概念ですが、これをある一時点の問題に絞り込んだうえで、損害論ではなく因果関係論として構成した点に特色があります。

【平成12年判決は何を認めたのか】

 日本における展開として重要なのが、最判平成12年9月22日です。医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときは、医師は損害賠償責任を負うとしました。生命を維持することは人にとって最も基本的な利益であり、この可能性は法によって保護されるべき利益である、というのがその理由です。

 その後、最判平成15年11月11日は「重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性」の侵害まで保護対象を拡大し、最判平成16年1月15日は債務不履行構成についても適用を認めています。

 平成12年判決以降、相当程度の可能性を認める裁判例は多数出されました。平野哲郎教授の調査によれば、平成23年12月時点で地裁判決89件、うち請求一部認容が64件とされています。ただし、そのほとんどは慰謝料と弁護士費用のみの認容であり、金額としては数百万円の認定が多く、死亡との因果関係を認めた事例とは大きく異なります。

【慰謝料に限られるのか―残された論点】

 ここからが、今回の報告の中心です。相当程度の可能性の侵害について、認められる損害は慰謝料に限られるのでしょうか。

 平成12年判決の調査官解説は、この点について判断を示していないと明言しています。差額説からは財産的損害と見ることは困難だが、死傷損害説からは認めることも可能であろう。より高額の慰謝料を認めることができるか、逸失利益等の財産的損害を一部認めることができるかは残された問題である、と。

 さらに調査官解説は、40%の救命可能性があった場合にこれを失ったことについて、逸失利益の40%に相当する損害額を認めるという考え方もあり得ようと述べています。これは確率的心証の問題とは異なり、統計資料等によって医学的・客観的に救命可能性が40%であったという心証がとれた場合の話です。

 この点に関して、当時の調査官であった杉原則彦判事が、河合伸一最高裁判事とのやり取りを論文で紹介されています。河合判事は、「生命に財産的価値が認められるのなら、生存可能性にも財産的価値が認められるはずで、生存可能性の喪失は立派な財産的損害と認められる場合があるはずだ」と述べられたといいます。

【差額説からの批判は反論になっているか】

 財産的損害を認めることに対しては、判例が採用しているとされる差額説の下では認められないのではないか、という批判があります。因果関係が否定されている以上、「過失がなければ生存していた」という前提を置けないのだから、逸失利益を観念できないという理屈です。

 しかし、この批判は反論になっていないと考えます。

 差額説は、不法行為がなかったと仮定した場合の財産状態と、不法行為があった現実の財産状態とを比較して、その差額を損害と捉える算定手法です。そうであれば、問題は「不法行為がなかったと仮定した場合の状態」として何を設定するかにあります。

 批判は、ここに「患者が生存していた状態」を設定しようとするものです。それが証明されていない以上、差額を計算できないという理屈になります。しかし、可能性を喪失したということは、その時点で患者が死亡していなかった状態を想定するものではありません。比較すべきなのは「生存可能性が失われていなかった状態」と「それが失われた現実の状態」です。この設定であれば、差額説の枠組みの中で損害を捉えることに支障はないはずです。

 そうすると、問題は差額説をとるか否かではなく、端的に、相当程度の可能性――実質的には機会の喪失――を経済的に評価することができるか否かという議論に帰着します。杉原論文が整理するように、生存可能性を生命維持の利益の割合的一部分と捉えるのであれば、その経済的評価は十分に可能です。調査官解説が示した「逸失利益の40%に相当する損害額」という発想も、まさにこの評価方法を示唆するものといえます。

【「高度の蓋然性>相当程度の可能性」という誤解】

 杉原論文は、下級審が慰謝料しか認めてこなかった理由について、鋭い指摘をしています。

 平成12年判決以前、下級審では期待権等の侵害として慰謝料請求だけが認められていました。そのため、平成12年判決がそれとは全く別の法益を認めたことが正しく理解されず、従来の実務を理論的に裏付けたものと誤解されたのではないか、というのです。

 また、因果関係が否定された段階で、「蓋然性よりも確率の低い可能性の喪失について逸失利益を認めることはできない」と考えてしまったきらいがあるのではないか、とも指摘されています。

 ここが決定的に重要な点です。「高度の蓋然性」と「相当程度の可能性」は、証明度の高低の問題ではありません。河合判事が述べたとおり、蓋然性は因果関係を認めるかどうかの証明の程度の問題であり、可能性は死亡とは別に生存可能性自体を保護法益と認めることができるかという問題です。両者は次元の異なる話であって、「高度の蓋然性のほうが相当程度の可能性より上位にある」という理解は誤りです。

 そして杉原論文は、平成12年判決は生存可能性を生命を維持する利益と同質のものと捉え、いわばその割合的一部分と考えているのだ、と整理します。生命ないしこれを維持する利益は、100パーセントの生存可能性である、という理解です。

 この理解に立てば、生存可能性の侵害について財産的損害を認める余地は、十分にあることになります。

【実務上の課題―主張の要否】

 実務的な論点として、相当程度の可能性が弁論主義の対象となるのかという問題もあります。新たな法益であるならば主張が必要ではないか、それとも縮小認定的なものと捉えるのか。

 主張しなければ裁判所が判断できないのであれば、あえて主張しないという訴訟方針もあり得ます。患者側代理人としては、悩ましい判断を迫られる場面です。

【おわりに】

 報告の要点をまとめると、次のようになります。因果関係の証明度としての「高度の蓋然性」は、少なくとも80%を超えるか否かという硬直的な判断に結びつくべきものではありません。医療訴訟では生存率などが数値化されるため、この問題が特に顕在化しています。
 また、「相当程度の可能性」と「高度の蓋然性」は証明度の高低ではなく、法益・損害が異なるものです。期待権侵害とも異なります。そうであれば、慰謝料は可能性の程度に応じた柔軟な算定がなされるべきですし、生存可能性という法益の侵害として財産的損害を認める余地も十分にあると考えます。

 裁判官と患者側・医療側の弁護士が一堂に会して議論できる場は貴重です。立場は異なっても、医療訴訟をより適切なものにしたいという思いは共通しているはずです。今回の報告が、そうした議論の一助になれば幸いです。

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