脳腫瘍手術で正常組織を摘出ー京都大学病院の医療事故が問いかけるもの
京都大学医学部附属病院は2026年8月7日、良性の脳腫瘍を摘出する手術で誤って正常な部位を切除する医療事故があったと発表しました。
患者は50代の女性で、小脳橋角部に3センチ程度の良性腫瘍が見つかっていました。ふらつきやめまいはあったものの、通常の生活に支障はなかったとされています。7月下旬、脳神経外科で20年以上の経験を持ち同様の手術を約100件行ってきた40代の男性医師の執刀により、約10時間に及ぶ開頭腫瘍摘出術が行われました。
手術中、腫瘍と考えられる部位から組織を採取して術中迅速病理診断を行ったところ、腫瘍ではないとの判定が出ました。執刀医は「腫瘍の端の組織を採取したため腫瘍が含まれていなかった」と認識して手術を続行。再度の検査でも腫瘍を否定する結果でしたが、肉眼所見とこれまでの経験から摘出したものは腫瘍であると考えたまま手術を終えました。
術後、意識と呼吸が回復しないためMRI検査を行ったところ、腫瘍は脳内にそのまま残存しており、脳幹の一部などが損傷していることが判明しました。患者は自発呼吸ができず人工呼吸器を装着し、手足も動かない状態が続いています。病院は国、京都府、左京警察署に報告し、外部有識者を含む事故調査委員会を設置しました。
前提として押さえておきたいのは、術中迅速病理診断は、術者が正しい場所を操作しているかを確認するための検査ではないということです。病理医が判断するのは手元に届いた組織が何であるかであり、術野のどこを操作しているかを見ているわけではありません。
そのため「腫瘍が認められない」という結果には、実際に正常組織を採取した場合のほか、腫瘍の辺縁を採った、検体量が少なかった、凍結標本のアーチファクトで診断が困難だった、といった複数の説明があり得ます。中枢神経系腫瘍の術中迅速診断は高い診断精度を有する一方、非代表的な検体や凍結標本のアーチファクトなどによって、最終診断と一致しない場合や診断を保留せざるを得ない場合も一定数あります。記者会見で診療科長が「2回出しても腫瘍じゃないと言われることがある」と述べたこと自体は、医学的にあり得る話です。
したがって「2回陰性なのだから誤部位と判断すべきだった」と単純に言うことはできません。問われるべきなのは、術前画像と肉眼所見に基づく術者の認識と、病理学的に腫瘍が確認できないという情報との不一致が繰り返されたときに、その不一致をどう評価し、どのような追加確認を行ったのかという点です。
ここで注目したいのは、執刀医が2回目の検査を行っていること自体です。第2回の検査を行ったということは、少なくとも第1回の病理結果だけでは術者自身の認識を裏付けることができず、追加の組織学的確認が必要と判断したことを意味します。それにもかかわらず、第2回でも同じ不一致が再現された後、なぜなお自らの肉眼的判断を優先できたのか。この判断過程こそ、最も詳細に検証されるべき点だと思われます。
そして事後的には、3センチの腫瘍が丸ごと残存し、別の正常組織が切除され、脳幹まで損傷していたことが判明しています。術者の位置認識が大きく外れていたことは結果として明らかです。そうすると問うべきは、「迅速病理の結果をなぜ信じなかったのか」ではなく、「繰り返された不一致を契機として、位置認識を再検証するプロセスがなぜ作動しなかったのか」ということになります。
もっとも、「2回とも腫瘍が否定された」という事実だけでは評価として不十分です。それぞれの検査がどの時点で行われ、その間に切除がどこまで進んでいたのかが重要になります。
仮に、第1回の結果が判明した後も相当量の切除を続け、かなり進行した段階で第2回の検体を採取したのであれば、第2回の結果が出た時点では既に重大な損傷が生じていた可能性があります。この場合、より厳しく問われるのはこの場合、より重要なのは、第1回の結果を受けた後、どのような再確認を行ったうえで、どの範囲まで切除を継続したのかという点です。逆に、第1回の結果を受けて直ちに別の部位から少量を再採取し、それでも腫瘍が確認されなかったのであれば、その時点は位置認識を根本から見直すべき強い契機であったことになります。
あわせて解明されるべきなのが、約10時間の手術を終えるにあたり、何をもって「腫瘍を摘出した」と判断したのかという点です。術前MRIには3センチ程度の腫瘤が確認されていたはずであり、術者には、いま摘出している組織が画像上のその腫瘤に対応するのかという確認が必要でした。2回とも病理学的に腫瘍が確認されないまま、摘出完了という認識をどのように維持し得たのか。ここは相当に不可解です。
小脳橋角部は、小脳と橋(脳幹の一部)が作る角の部分にあたり、聴神経、顔面神経、三叉神経といった脳神経や血管が密集する領域です。腫瘍の組織型は現時点で明らかではありませんが、この部位の成人の良性腫瘍として典型的なのは、前庭神経鞘腫や髄膜腫などの脳実質外病変です。脳実質内に浸潤していく腫瘍であれば境界の判断に本質的な困難がつきまといますが、脳実質外病変ではその性質が異なります。正常組織を相当量切除しながらそれを腫瘍摘出と認識し続けた経過は、境界判断の難しさだけでは説明しにくいように思われます。
なお、報道から確認できるのは腫瘍の残存と脳幹の一部などの損傷であり、摘出された正常組織が脳幹そのものであったのか、他の組織を摘出する操作の過程で脳幹が損傷したのかは判然としません。
位置確認の手段としては、手術用顕微鏡による解剖学的確認のほか、術前画像から器具先端の位置を表示するナビゲーションシステムがあります。ただし、この部位の手術で全症例に必須の標準装備とまではいえず、開頭後の脳の沈み込みによる誤差も知られています。ナビゲーションは、目の前の組織が腫瘍か正常組織かを判定する装置ではありません。検証されるべきは使用の有無よりも、術者が自らの操作部位を術前画像や解剖学的指標とどのように照合していたのかという点です。
術中神経モニタリングも、脳幹全体を連続的に監視する装置ではありません。運動誘発電位は主として皮質脊髄路を、聴性脳幹反応は聴覚路を反映するものであり、呼吸中枢を直接監視しているわけではないため、変化がないことは安全を意味しません。そのうえで、どのようなモニタリングが実施され、変化があったとしてどう評価したのかは検証されるべき事項です。
記者会見で診療科長は「経験から来る慢心か」との問いに「だと思います」と答えたと報じられています。率直な発言と受け止められますが、事故調査としては個人の心理に還元して終わらせるべきではないでしょう。
医療安全の分野では、こうした事象は層構造で理解されます。初期に「ここが腫瘍だ」という作業仮説が形成され、その後の不一致情報が「検体採取が適切でなかったのだろう」という形で当初の仮説を維持できるように解釈され、より強い不一致が現れても最初の判断から離脱できなくなる、という経過です。
さらに手術室では、執刀医が最も経験豊富な立場にあることが多く、他のスタッフからの異論が方針転換につながりにくいという構造も指摘されています。問うべきは「なぜ執刀医は思い込んだのか」だけではなく、「なぜ二度の不一致が生じたのに、チームとして手術を止められなかったのか」です。
医療安全の分野では、患者の取り違え、部位の取り違え、術式の取り違えといった事象が「Never Event(決して起きてはならない事象)」として整理されています。本件は、正しい患者に対し予定された開頭部位から予定された術式を行う中で、術野内において正常組織を標的病変と誤認した事案であり、古典的な意味での誤部位手術そのものと評価できるかは議論の余地があります。しかし、医療安全上これに匹敵する重大な事象であることに疑いはありません。
注意義務違反の内容は、術中に自らが操作している部位を正確に把握すべき義務、そして客観的な検査結果が自らの判断と繰り返し食い違った場合に、操作位置の妥当性を再検証して手術方針を見直すべき義務に違反した点にあると整理できます。少なくとも、正常組織を病変と誤認して切除したという基本的な事実関係が公表内容どおりである限り、何らかの注意義務違反が認められる可能性は高いと考えられます。
なお、病院は左京警察署にも報告しており、業務上過失致傷罪の成否が検討される可能性があります。医療行為への刑事責任追及については、福島県立大野病院事件(無罪)以降、慎重な運用がなされてきました。医療の萎縮を招くという批判は正当なものです。もっとも本件は、客観的な検査結果が術者の認識と繰り返し食い違っていたにもかかわらず方針が修正されなかったという構造であり、通常の「判断の難しさ」の範疇を超えている面があり、刑事責任の成否について捜査機関による検討の対象となること自体は十分に考えられます。
医療安全管理部長が「ビデオは、全部、保全している」と述べている点は、医療訴訟の実務家として注目すべきところです。
通常の医療訴訟では、術中に何が起きていたのかを事後的に再現することは極めて困難です。手術記録は簡潔な記載にとどまることが多く、当事者の記憶にも限界があります。この「見えなさ」が、患者側にとって長年の障壁となってきました。
本件では、手術映像を病理部門の記録や診療記録と突き合わせることにより、迅速病理の検体採取・結果報告と切除操作との時間的関係を、相当程度客観的に再構成できる可能性があります。この検証が十分に行われ、その結果が患者・ご家族に適切に開示されるかどうかが、今後の対応の誠実さを測る一つの指標になると考えます。
通常の生活を送れていた50代の女性が、症状の悪化を防ぐために受けた手術によって、自発呼吸すらできない状態になりました。しかも摘出されるはずだった腫瘍は、脳内に残されたままです。ご本人とご家族が受けた衝撃は、想像することすら難しいものだと思います。
日本を代表する医療機関で、豊富な経験を持つ専門医が執刀した手術でこのような事態が起きました。技術や設備の不足ではなく、自らの認識と異なる情報が繰り返し示されたときに、それを位置の再確認につなげられるかどうかという一点が、結果を分けたように思われます。事故調査委員会による徹底した原因究明を期待します。