那智勝浦町立温泉病院・くも膜下出血の見落としと転送義務―専門医不在病院の『読影システム確保の責任』
和歌山県那智勝浦町立温泉病院で2026年5月、救急搬送された45歳男性のくも膜下出血を医師がCT検査で認識できず、男性が別の病院で緊急手術を受けたことが報じられました。
報道によると、男性は5月6日午後2時40分頃、勤務中に頭痛を訴えて同病院に搬送され、点滴と痛み止めで対応されました。翌7日午前5時頃、嘔吐と頭痛のため再び搬送され、同じ医師がCT検査を行いましたが「明らかな異常はわからない」として吐き気止めなどを処方し、男性はタクシーで帰宅しています。家族が和歌山市の自宅へ連れ帰った後も容体は改善せず、5月8日に市内の病院で再度CT検査を受けてくも膜下出血と診断され、緊急手術を受けています。男性はその後意識が回復し、5月26日に退院しました。
同病院には放射線科医がおらず、外部に画像読影を依頼するためにタイムラグが生じる体制となっており、くも膜下出血の疑いを病院として確認できたのは8日でした。報道では、診察した医師が「私ではよく診られなかった」と家族に電話で謝罪したとされています。
くも膜下出血は、医療訴訟において繰り返し問題となる疾患の一つです。「突然発症の激しい頭痛」「嘔吐」を訴えて救急搬送される患者では、くも膜下出血を含めた頭蓋内疾患を鑑別の最上位に置く必要があります。
本件の経過を時系列で見ると、見逃しを疑わせる要素が複数並んでいます。第1に、初回受診時から頭痛が主訴であったこと。第2に、翌日には嘔吐を伴って同じ症状で再受診したこと。再受診の時点で「症状が改善しない頭痛+嘔吐」というくも膜下出血を強く疑わせる経過が揃っており、CT検査が施行された判断自体は適切でした。しかしそのCT画像で「明らかな異常はわからない」と判断され、専門医による読影を経ずに帰宅させられた点に、本件の問題があります。
くも膜下出血のCT診断は、出血量が多い症例では非専門医でも比較的容易ですが、軽度の出血や撮影時相によっては所見が微妙な場合もあります。脳底槽の高吸収域などの所見を見落とすことは、画像診断に習熟していない医師では十分に起こり得ます。だからこそ、頭痛・嘔吐で救急受診した患者のCTは、脳神経外科医または放射線科医の読影を経る等による確認体制が望まれるところです。
本件で問われる過失は、CT画像の読影誤りそのものだけでなく、もう一段階深いところにあります。
まず、CT画像でくも膜下出血を見落としたこと自体は注意義務違反となり得ますが、その評価は「当該医師に求められる画像診断能力の水準」によって変わります。専門医ではない救急医・一般医に放射線科専門医と同等の読影能力を求めることには限界があります。但し、CTは出血が分かりやすく、感度は非常に高いとされており、出血の有無について意識的に見ればそこまで難しいものではないともいえます。
しかし本件では、それ以上に重要な争点があると考えます。頭痛・嘔吐で再受診した時点で、確定診断ができない場合に、専門医のいる病院へ転送する義務を尽くしたかという点です。診断・治療に限界がある場合には、適切な医療機関へ転送する義務が認められます。本件は、自院に脳神経外科医や放射線科医がおらず、外部読影に1日以上を要するという体制下で、くも膜下出血の鑑別を要する患者を帰宅させたという構造で、転送義務違反として過失が問われる典型例です。
また、初回受診時点での問診と診察が、くも膜下出血を鑑別に含めた十分なものであったかも検討対象となります。「突然発症」「経験したことのない激しい痛み」といったくも膜下出血特有の問診事項が確認されていたかが争点となり得ます。
本件では幸い男性が救命され、退院に至っています。意識不明の期間があり、後遺障害の有無や程度については報道からは明らかではありませんが、仮に何らかの後遺障害が残ったとすれば、診断の遅れと後遺障害との因果関係が争点となります。
くも膜下出血の場合、早期診断・早期手術により再出血を防ぐことが転帰を大きく左右します。5月7日のCT検査時点で適切な診断・転送がなされていれば、後遺障害の残存を回避できた可能性は十分にあります。
本件は、単なる「医師個人のミス」として処理してはならない事案です。地方の中小規模病院では常勤の放射線科医を確保することが極めて難しく、CT・MRI等の画像検査を行っても専門医による迅速な読影が得られないという構造的な問題が、全国の多くの地域で続いています。
報道で長尾能雅・名古屋大教授も指摘するとおり、遠隔読影サービスやAIによる画像診断支援の活用は、こうした地域医療の課題への重要なアプローチです。すでに遠隔読影サービスは多くの企業が展開しており、夜間・休日でも数十分以内に放射線科専門医の読影が得られる体制を構築することが技術的には可能となっています。AIによる脳出血検出支援システムも複数の製品が承認されています。
医療訴訟の場面でも、こうした技術が利用可能な現状を踏まえると、「専門医がいないから読影できなかった」という弁解は、もはや成り立ちにくくなっています。「専門医がいないなら、どのようにして適切な読影を確保するか」というシステム構築の責任が、各医療機関に問われる時代になっているのです。
頭痛と嘔吐で受診し、CT検査まで行われた45歳男性が、自宅へ帰されてから別病院でようやくくも膜下出血と診断されることになりました。幸い男性は救命されましたが、もし手遅れになっていたら結果は大きく異なっていたはずです。地方医療の構造的制約を理由にこの種の事案を「やむを得ない」と片付けてしまうのではなく、脳卒中ホットラインの拡充、他院との協力体制や遠隔読影やAI活用といった具体的な解決策を全国の病院で進めていくことが求められています。